気、プラーナ、オーラ。
普通の人には見えないけれど、一部の人には肉眼で見ることができる、これら通称「不可視のものたち」。
これらについて、見える側である私の立場から、どう思うか? これは実際のところ、なんなのか? を今回はお話したいと思う。
気はどう見えるか?
気というのは、大気中にある透明な流れや渦として見える。
例えば、水中で手や足を動かしてみると、そこに水の流れや渦が見えると思う。これの大気版だと考えてもらえたら、イメージとして、わかりやすいと思う。
気というのは、このような見え方をする。
透明な大気の中に起こっている、流れや渦というのが気の見え方だ。
プラーナはどう見えるか?
プラーナは、大気中を浮遊する無数の光の粒として見える。
目をギューッと押したあと、パッと開くと、チカチカと光の粒が見えることがあると思う。
ちょうど、あれによく似たかんじだ。
目のチカチカと異なるのは、それがなんの刺激もなくても見えることであり、場所によって数や光の強さが異なることだろうか。
このように、白い光の粒が大気中を動き回っているように見えるのが、プラーナの見え方だ。
オーラはどう見えるか?
オーラは、他人、動物、無機物、あるいは自身でも、じっと見ていると見ることができる光の放出だ。
対象の輪郭から、ぼやっと光が放出されているような見え方をする。
強さも明るさも色も形も、対象によって様々違う。
その光が色付きだったり、もっと目がいい人は、光に色んな色の層があるところまで見れる。
これがオーラの見え方だ。
私自身は、人は輪郭通りに見えるけど、空を飛んでいる鳥などは、卵型の光に包まれているように見える。(もしかしたら人間もいちばん外側は卵型なのかもしれないけれども、私が人間に対して見えるのは輪郭の表層だけだ)
どうやったら見えるか?
私はこの視覚を調整することができる。
ちょうど、目のピントを合わせるのと同じようなかんじである。
手前にある物を見たり、遠くにある物を見たりするときに目のピントを調整するのと同じように、気やプラーナやオーラが見えるピントというものが存在するので、そこに焦点を合わせるわけだ。
この方法は、決して私だけでなく、これらを見ることができる人にとって共通の感覚だと思う。
つまり、気やプラーナやオーラを見るというのは、精神的な方法でも、意思的な方法でもなくて、物質的な方法だというわけだ。
霊はどう見えるか?
対して、霊をビジュアルとして見るときは、上記の3つのものと全く異なる見え方をする。
イメージと現実が重なっているかのような見え方をするから、実は、よく見ると、霊視された霊というのは平面的なのだ。
平面的というのは、もちろん360度、像はあるんだけれども、モニターで映した立体を見ているようなものだ。
私は、霊と幻覚は似た見え方をするのではないかな?と考えている。
もっとも、私は幻覚は見たことがないから、あくまでも憶測にはなる。
とはいえ、この仮説に基づいて考えた場合、理屈としては次のような話になるのではないだろうか。
つまり、脳が何らかの像を脳内で生み出して、それを現実に投影するから、平面的な見え方をする。
だからこのような見え方で見えるものというのは、いくらありありと見えても、実際には、脳に映し出された像であるというわけだ。
ようするに、視覚的な霊というのは、環境上にある何らかのシグナル(ニオイや雰囲気や気配など)を複合的に受信した脳が、脳内で像を生み出したものではないだろうか?
というのが、私が考えている仮説である。
気・プラーナ・オーラは、なぜ見えるのか?
それに対して、気とプラーナとオーラは、霊のような見え方をしない。
目のピントを合わせるという物理的な技術によって、物理的に見える。
だから、霊のように、脳が像を生み出したわけではないと私は考えている。もし、脳が生み出した像なら、決してこのような見え方をしないはずである。
じゃあ、これらは一体何なのか?
なぜ、見える人と見えない人がいて、科学的な計測ができないのか?
これについては、私は以下の仮説を立てている。
人間の微細なセンサー
人間というのは元来、自然界に対する繊細なセンサーを持ち合わせているが、その繊細なセンサーは現代社会においては不要だったため、その機能を退化させている人が大半なのではないだろうか?と。
とくに、現代社会のように、情報や音や光の刺激過多な環境においては、疲労感やストレスにつながるなどして、マイナスになることが多い。
だからこそ多くの人は退化させてしまったのかもしれない。
そのような人でも、もともと持っていた機能であるから、実際には、訓練によって誰でも再取得することは可能だ。
気、プラーナ、オーラというのは、人間が本来、感受することができる自然的な感覚の一部なのではないだろうか。
そして、さらに、なぜ、それが科学的に観測できないか?というと、それは観測するための機器が作られていないからである。
地球の70%を占める海ですら、2025年現在でも、やっと20%ばかりの海底マッピングを終えたばかり。その組成や生態系に至っては、今なおほとんどが未解明なままだ。
人間の細胞についても、私たちが理解しているのは全体のほんの一部にすぎない。
極限まで遺伝子を減らした“最小限の細胞”でさえ、その約3割の遺伝子は、いまだ何の働きをしているのかがわかっていないという。
ましてや複雑なヒト細胞のすべての機能など、全体の2〜3割も解明できていれば良い方だとすら言われている。
科学というのは実際には、このような状況なのだから、いまだに技術が至れない領域を人間自身が有しているのは、特に不思議なことでもなんでもないと私は思う。
むしろ、技術がすべてを理解していて、すべてを解決できて、「技術による理解が及ばない場所=無いものだ」と過信するほうが、ごう慢で危ない考え方ではないかと私は思っている。
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