スピリチュアルは“信じる”対象ではない。検証し、体験するものだ

引き寄せも波動も信じない、私のスピリチュアルに対するスタンスとは?

私は日々、見えないものに対する体験談やあったことや思想を、こうしてここで発信していますが、実はこう見えて、引き寄せの法則や波動のような浮ついた方の話は一切、信じていません

私にとってのスピリチュアルは何なのか?

今日はそんなお話をしたいと思います。

開運のツールではない

私にとってのスピリチュアルは、開運ためのツールではありません。

これは私にとって、あくまでも日常であり、暮らしの中にある身近なものであり、生き方のひとつです。
見えるから見える・あるからある・影響を受けるから影響を受ける。

だから体験や経験を、体験として経験として書いているだけ。

ただ、在るものを在ると当たり前に書いているだけのことであり、それは信仰でもないし、信心深さもありません。

だから検証できていないものは、ハッキリ「未検証です」と言うし、ましてや筋が通りそうもないものや理屈が漠然としているものは、いくらスピリチュアル界隈で名前が通っていたとしても、まったく信用していません。

検証して体験するものである

私にとって、スピリチュアル――もっと正しく書けばそれらは、気、プラーナ、クンダリーニ、高次存在、霊的体験……そういったことになりますが、これは、「あるらしい」という噂話をふーんと聞くだけというような対象ではありません。

まずは疑うところから始め、自分の体で実際に検証して、体験して、初めて確かに在ると言って良いものだと考えています。

だから私のスタンスというのは、どちらかというと魔術師的な向き合い方だと思います。

魔術師というのは、不可思議なものを信仰の対象にするでもなく、実技や実利のために扱おうとするスタンスを持つからです。

それでも魔術師とも名乗れないなと思っているのは、方法自体は知っていても、護符やおまじないを使って、願望成就するためのエネルギー活用をしようとしないからです。

なぜかというと、そのリスクを知っているから、リスクを飲んでも良いと思えない限りは手を出さないようにしているのです。

だから、私にとってのスピリチュアルというのは、ただ単に、検証して体験して経験する
それだけを目的にしているあたりが、魔術師とも名乗れないと自分では思っています。

何のために経験を詰むのか?

私が、これを追求するスタンスでいたのは――いえ、実際には、追求しようと思って積極的にそうしたわけでもありませんが、結果的に、追求する形になった理由は。

物質世界を超えた、この世界のすべてを知りたい・世界の真理を解き明かしたいという気持ちがあったからです。

たぶん、おそらく(私がこれについて、おそらくと付けるのは、それが絶対ではない可能性があるからです)今の私というのは、求めていた知恵の全てを知り尽くしています。

なぜかというと、それを1〜10まで余すことなく、すべて教えてくれる存在が常にそばに居たからです。

だから子供の頃からコツコツと、夢、白昼夢、超常現象、瞑想、対話などを通じて、あらゆる知識を積み上げることができました。

でも、それはあくまでも知識として知っているだけです。

たとえ過去世の私が体験済みであったとしても、いくら高次存在にそう言われたとしても、自分の身に起こったこともないものは、机上の空論や妄想と何も変わりがないと自分は思っています。

だから、あとは検証して、実際の形にして、実体験にまで落とし込む。

それが私自身に必要なことだと考えています。

高次存在から受け取ったあらゆる知恵を、自分はもちろん、あらゆる人間が実際に実体験として経験できる形にすること・直接的に恩恵を受けられる環境を築き上げることが個人的な目標です。

精神世界の研究者

私自身のスタンスに最も当てはまるものとしたら、『精神世界の研究者』これではないかなと思っています。

まずは理論に基づき仮説を立てて、それに基づき実験して、体験し、それによって是非を図る。
このようなプロセスを回すことを重視しているからです。

ただ、通常の科学と違うのは、統計的なアプローチをなかなか取ることができないところにあるでしょうか。

なぜかというと、こういったものが軒並み、陰謀論や詐欺商法から生まれた嘘と一緒くたにされて、胡散臭いと一蹴されるような世の中です。
真面目に修行しようという人が、ただでさえ居ない上に、それをしたからといって、みんな同じように体験できないから統計を取れるほどの母数が揃わないのです。(ちなみに、科学的に意味がある根拠となるためには、どんなものであっても最低1000人の母数が必要です)

仮に1000人やっても1000人みんなが同じように体験できないのには理由があります。

人間というのは、生まれつき国籍も家柄も才能も異なるのと同じで、こういった超常的な素質に関しても、生まれつきの違いがあります。

その違いとは、遺伝子や脳構造の違いとは異なる理由です。

現実か非現実かの違い

具体的な説明はシャンカラノートにまとめてありますが、世界というのは、本来は私たちが考えているような、「自己の外側に物質的な世界が客観視できる形で広がっている」構造をしていません。

その構造は、あくまでも表面的な構造です。
本質的には、「自己意識が在ると主観しているもの」というのが、自身が体験しうる世界というものです。

ここに、意識学的に本質的なものであればあるほど、みんなが同じように体験できない理由が存在します。

つまり、超常現象、霊的体験、目に見えないものと一般的に言われているものに対して、自己意識が在ると主観できる世界を持つ人間と、主観できない世界を持つ人間が世の中には存在するというわけです。

とくに現代社会というのは、社会ぐるみで唯物的な世界が当たり前という価値観の構造をしています。

だから、ますます、いわゆる目に見えない世界を、自己の世界の一部として体験できる人間の数が減っているというわけです。

最後に

今回は自分のスピリチュアルに対するスタンスについてを主題に、ここまで書きましたが、私自身の考えとして、無理をしてまで、いわゆる目に見えない世界と親しむ必要性というのは、これといってないと思っています。

これは、遠出がしたいから車に乗る、インターネットがしたいからスマホを持つ等と同じことです。

自分の人生をプラスにするためには必要があると感じる人が、必要あるものと、うまいことお付き合いすればいいものだと思っています。

先も述べたように、私のスタンスは、信仰でもなければ依存でもありません。

ただ、検証して体験をする。役立つものについては役立つものとして扱う。そういう魔術師的なスタンスを持っています。

だから、このような世界を、誰にでもオススメするわけではありません。

それでも、私も含め、こういう生き方が必要な人というのは、世の中に存在しているのだろうと感じています。

それがなければ健康的な暮らしができない。心身に不調をきたしてしまう。人生を崩してしまう。そういう人というのが、一定数いるのです。

私はこれを弱さだとは捉えていません。

ただ、刺激や物質世界を極めた現代社会に適応できないというだけだと思っています。

そういう多様性も認められる世界が在ればいいのにな。と考える今日この頃です。

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