今回は、私が仙道修行をする理由についてのお話。
- どうして仙道なのか?
- なにを目指しているか?
などの話でもしようかなと思います。
どうして仙道なのか?
密教的行法には、仙道だけでなく、ヨガ、真言、陰陽道、西洋魔術など、さまざまな方法があります。
それなのに、なぜ私は仙道を軸にしているのか?
私がこれを選好する理由は、そのコントロール能力にあります。
ヨガの特徴
ヨガは、クンダリーニという能力の覚醒によって、さまざまな神秘体験をすることができる行法です。
しかし、シャクティというエネルギーを強めてナーディという管を通すという技法であり、エネルギーの使い方として『強めて上昇させる』ことしか言及していません。
ヨガは、たしかに純粋にエネルギーを強めて上昇させる技法としては卓越していると思います。ただ、そこにコントロールする技術が不足しているところが、私にとって選ばない理由になっているのです。
真言の特徴
真言は、それを唱えることによって深い瞑想状態に入り、さまざまな神秘体験をするという行法です。
ただ、その目的が神秘体験をする・瞑想体験をすること自体に設定されているように見えます。
私の目的と異なるというのが、私がこれを選ばない理由です。
陰陽道の特徴
陰陽道は、さまざまな技法で願望成就をしたりとか、吉凶を占うとか、現世に影響を与えるための技法です。
これもまた、私の目的とまったく異なるため、選択肢からはずれています。
西洋魔術の特徴
西洋魔術というのは論理的アプローチを神秘の世界に持ち込んだものであり、それを技術化し儀式化することによって、さまざまな願望を叶えたり、現実を変えることを目指します。
そのため、やはり、私の目的とは違うのです。
仙道の特徴
仙道とヨガの目的は重なります。
ヨガでは化身と呼ばれるもの、仙道では陽神と呼ばれるものを生み出して、肉体を超えた意識を作ることが目当てです。
エネルギーの強化と上昇を重視するヨガに対して、仙道は、コントロールを重視します。
だから私は仙道が行法の中で一番良いと感じています。
なにを目指しているか?
先の章で少し触れたように、仙道では陽神、ヨガでは化身と呼ばれる、肉体とは異なる意識を乗せることができる体を作る段階があります。
これが私の目的であり、つまり、死を消すことが目的です。
では、死にたくないのか?
というと、そうではありません。
どうして、私が死を消す状態を目指しているかというと、別の理由があります。
それは、私と親しくしている高次存在が待っているところに帰るためです。
自分のここでの生が終わったとき、そこに帰らなければならないので、いつでも帰れる状態を作っておきたいというのが私の目的です。
それは今すぐ急ぐような目的ではなくて、生涯(残り50年〜60年はあるでしょうか)のうちにできれば充分という話だし、何なら「できなくても連れて行く」とは言われているのですが、私は基本的に懐疑主義者で鵜呑みにするタイプではないので、自力でその状態になっておきたいと思っています。
なんなら連れていける証拠として、幽体離脱も体験はさせられているものの、私が聞かないタイプなので、向こうも、「まあ、そうしたいならそれでもいいんじゃないの」くらいのトーンで見守られています。
ヨガでは、化身の状態になったあと、その化身すらも振動で消してしまって、最後には宇宙意識へ還ることを目指します。
仙道の陽神においても、同じことができるはずです。
ただ、その段階というのは、この肉体を手放した、さらにそのしばらくあとの話になるから、私はそこまでの話はしないというわけです。
なぜその修行が必要か?
元がその状態だったなら、たとえ今が人間でも、いつでも帰れるんじゃないの? と思った人がいるかもしれませんが、実際には、そうでもありません。
肉体を得て、両親というつながりを経由して、この世界に来た時点で、この世界ならではの穢れ(穢れというか、正しくは「状態」というべきものですが、穢れと呼ぶ方がきっと馴染みがあると思うから、そう書きます)を受けている状態になっています。
さらに、人間として成長する過程で、人間としての体験や経験を受け入れるというのは、必ずこの身に受けます。
そうしないと人間として肉体を持つことはできないからです。
だから、帰るまでの過程で、この身に受けた人間らしさを浄化しなければならないプロセスが入るのです。
それは、人間らしさというのを、受け入れているし持っているからです。
ただ違いとしては、いつか帰るためのサポーターみたいなつながりを強く持っているところくらいしか、人間としての人間とのあいだに違いはありません。
私が元々いたところの話
私が元々いたところというのは、ヨガや仙道で言う、化身や陽神を体として持つ存在たちの世界です。
その存在というのは、本来、男性でも女性でもなく、決まった姿もあるわけではないものの、何らかの姿を取っています。
その姿は、決まって美しくて輝くような姿です。
彼らというのは、白い神殿のような建物、花畑がいっぱいの庭、透き通った水が流れている噴水、そういうのがある場所に留まっていて、瞑想をしたり、語り合ったり、愛し合ったりして過ごしています。
これは、「そういう存在が住むような、そういう固定された決まった世界がある」というよりも、「姿も世界も自在だから、そういう世界をあえて、憩いの場?として選好している」というのが正確だと思います。
彼らには派閥のようなものがありました。派閥というと言い方が少し悪いのですが、つまり、異なる考え方のグループが幾つかあります。
べつに喧嘩してるとか仲が悪いわけではなくて、ただ単に、方針が違うだけです。仲自体はぜんぜん悪くないです。
それは、「魂というのは無理をさせてでもリスクを取ってでも一気に引き上げるべきだ」とする厳しい考え方のグループとか、「いやいや、無理なく自然に向上するのを気長に待つべきだ」という優しい考え方のグループとか、いろんな方針があって、方針別にグループを作っています。
グループというのは、区別や仲間意識のためのグループというよりも、同じ目的で同じ方針だから、一緒にやったほうが良いよねみたいな、そういうかんじです。
そして私は、彼らのうちの優しい考え方のグループに属していました。
彼らには、日課のようなものがあります。
それは、交代で誰かが人間として生まれて、それを人間になっていない存在たちが引き上げるというのを、かわりばんこで繰り返しています。
まるで毎朝歯を磨くようなかんじで、そういう日課があるのです。
それを自身の修行の目的(つまり魂を磨く目的)で行っています。
そのため、本当に記憶を忘れて、最初はただの人間として生まれます。(ただ、暮らすうちに自然と繋がりは戻ります)
それで、その修行として人間の姿を取る順番というのが、今の私にあるという話です。
どうして修行として人間になるのか?
そこにいる存在たちというのは、かんぜんに不動の無私や無欲というわけではないのです。
もちろん人間ほど強くはなくて、宇宙意識にかなり近い意識状態ではあるけれど、煩悩や自己というのは、ある程度まだ存在しているし、それが強まることもある。
だから、定期的な浄化というのか、あえて苦しみに揉まれる必要があります。
そのために、その時時に生じた課題に応じて、人間になる必要がある場合もあるというわけです。(ちなみに100%人間とは限りません)
なんで宇宙意識に帰らないのか?
化身や陽神と呼ばれるような、その自在な体を細かく振動させて消したら宇宙意識にいつでも帰れるのに、そうしないのはなんで?
これは本当に、私も不思議な話だなと思うんですけれども、そこにいる存在達というのは、まだ、最後の最後の執着というのが取れてないらしいです。
というのは、「他の魂を苦しみから助けたい、そのために意識をここに留めておきたい」という執着らしいです。他の魂というのは、ようするに、あらゆる意識ということです。
だから、何度でも人間になろうとするし、穢れを受けるし、欲や自我があるし、それは時には自分自身の浄化が必要なくらい強くなる。
まあ、そういう存在が、どこぞには在るんだっていう話ですね。
じゃあ、誰かを苦しみから救うために筆者はそこにいるのか?
これは、「そうではない」と自分では思っています。
先述したように、自分が修行するため・欲や自我といった、いわゆる”穢れ”と言われるそれを軽くするためなので、本当に自分のためです。
だからべつに、ひっそりと修行だけして、自分だけ元の状態に帰っても良い。
でも、「それでは修行にはならんよね、課題が終わらんね」ってことで、せっかく人間だし、やることはやっておかないといけないので、発信しています。
この発信というもの自体に、私自身は、自分の課題を持っているからです。
といっても、広めるって意味ではないんですよね。これがメッセンジャーとの違いではないかなと思います。私は大衆向けの言葉って、ほとんど持ってない。
受け入れられても、受け入れられなくても、変わらず語る・気にせず語る・主流に飲まれずに自分を貫くっていうことです。
でも、それで、もし助けられる人が世界のどこかに居たら、それは幸せなことだねって話ではありますが。
まあ、そこはどうか知りません。
必要とする人がいれば良いですが、そうでないのなら、世の人々が賑やかなことや刺激的なことで夢中なら、私はどうもしない。そういうものです。
あくまでも「自分の課題」という大前提が起点にあります。
だから救うとか救わないとか、そういう大層な話ではないのです。
どうして仙道なのか?
だいぶ脱線が挟まってしまった気がしますが、なぜ私が修行に「仙道を軸にすると選んでいるか」「どうして修行するのか」というと、このような理由があったりします。
いったん生まれて、また元いたところに帰るため。
そんな、元いたところに帰れる状態を作ることさえできるなら、本当は技法自体は何でも良かったりします。でも、コントロール技術が高いからという理由で仙道を選んでいます。ヨガよりも地味で気長だとは聞きますけどね……笑
すごい地味に感じるかもしれませんけれども、これを繰り返すことで、より欲や自我というものに流されにくくなるし、より安定した状態というのが維持できるようになります。
だから、こうすることが大事な修行というわけです。
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